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雨の日





「雨が降ってるから、お散歩に行けなくて残念ね」

 耳元でささやかれる甘い声は、物心ついた時からいつもそばにあったものだ。


「お外に出たいの?でも、今お外に出たら、ずぶ濡れになって風邪をひいちゃうわよ?」


 宥めるように背中を撫でる小さな掌の温もりも、ずっとずっと自身の傍らにあり続けた。



「……だから……今日は、お部屋で遊びましょう、マルコシアス?」



 包み込むように自身を抱くその胸の中は、 産まれ落ちてすぐに拾われた時と全く変わらず柔らかかった……。


















あめのひ












 地獄の底にも雨は降る。煙るような雨が大地に落ちる雨音以外の音がない広い部屋の中で、マルコシアスはその血色の瞳をゆっくりと開けた。 
 恐らく、執務中に襲ってきた睡魔に耐え切れず、机に突っ伏すような恰好で眠ってしまったのだろう。腕の下には蚯蚓がのたくったような線が描かれた紙が散らばっている。どうあがいても解読不可能な書類をゴミ箱に投げ入れながら、第七座天使の侯爵は顎が外れんばかりに大口を開けて盛大なあくびを洩らした。
 狼の本来の主な仕事は、餌を捕るための縄張りを見張ることと、群れの仲魔を守ること。そして、いざという時の体力を蓄えおくために、眠ることも重要な仕事であった。狼の狩猟法は獲物をしとめるまで何時間でも追跡を続けるため、かなりの体力を確保しておかなくてはならない。そのため、狼はよく眠るのだ。餌を食べて満腹になると、あとはひたすら眠り、次の狩猟に備える。
 第七座天使の侯爵として人の姿を得るようになってかなりの年月を経た今でも、獣の本能は彼の身体の中に脈々と息づいているらしい。獲物の取れる確率の少ない雨の日など、狼にとっては絶好の昼寝日和であったのだろう。
 吟遊公爵の庇護下に置かれ、敵を見張る必要も餌を捕まえる必要もなくなったマルコシアスではあるが、長い歴史の中で培われた本能がまったく消え去ったわけではない。 
 ……というより、餌を捕る必要がなくなり、眠ることに専念できるようになっためなのだろう。第七座天使の侯爵の睡眠欲は高まるばかりだ。
 ふと眺めた窓の向こうでは、灰色の空から大地に降り注ぐ細い細い銀色の糸は、荒れ果てて乾いた地獄の大地を潤しながら降り続けている。湿った空気に重く痺れる節々の気だるさと、今まで見ていた遠く甘い夢の残滓を振り払うかのように……。椅子の上で身体を伸ばしたマルコシアスは、まとめなければならない資料を手に取った。
 ……………………が……。
 いい加減、仕事に熱中しなければならないということはわかって這いうるものの、全く気勢が上がらないのだ。視線は紙面の文字を追ってはいるものの、それがどういう意味をもった文字列であるかを理解・判断することを脳が拒んでいるかのようだ。
 やる気もなさそうに頬杖をつき、だらだらと資料を読み流す第七座天使の侯爵に、容赦ない睡魔が再び襲いかかってくる。徐々に徐々に遠ざかっていく諸感覚の流れに身を任せようと、机に突っ伏したマルコシアスが瞳を閉じようとした時……。
 部屋に充満する弛んだ空気を吹き飛ばすかのように、ノックの音が飛び込んできた。
 漂っていた睡魔を吹き飛ばされたマルコシアスの眉間に、深い皺が寄せられた。午睡を邪魔された第七座天使の侯爵様のお怒りは存外に深いらしい。不機嫌そうな表情を隠すことなく机から頭を上げたマルコシアスの返事も待たず、執務室のドアが遠慮がちに開けられる。細く開けられたドアの隙間からは、よくよく見なれた白いベールが覗いていた。

「………………何してんだ、馬鹿モリー……」

「んとね、勇猛公から書類を預かったものだから……様子見ついでに寄ってみたの」

「勘弁してくれ……雨ってだけでだるいってのに、これ以上仕事が増えるのかよ……」

 瞳を眇めるマルコシアスに臆することなく微笑む少女――吟遊公爵・グレモリーが、携えて来た何冊かのパートファイルを示して見せる。空軍の同僚であるナベリウスから託されたというそれは見るからに分厚く、マルコシアスの眉間の皺が一気に深くなった。
 うんざりした様子で額に手を当てるマルコシアスを視界の端に捕らえつつ、クスクスと小さな笑い声を洩らしたグレモリーがゆっくりと足を進める。執務室に敷かれている絨毯が足音を飲みこむせいか、聞こえるのはさやさやとした衣擦れの音だけだ。
 改めて机の上に置かれたファイルの厚さに、溜め息をついたマルコシアスが盛大に顔をしかめる。舌打ちをしながら髪を掻き毟る第七座天使の侯爵の頭に、吟遊公爵の白く小さな手が伸ばされた。
 不貞腐れた子供のようにそっぽを向くマルコシアスの口から出る言葉は、ずいぶんと子供染みたものだった。だが、おそらく。口を開く彼自身も、その子供っぽさに気付いているのだろう。宥めるように髪を撫で梳かれる第七座天使の侯爵の視線が、どんどん下に伏せられていく。
 所在無げに窓の外を眺めるマルコシアスを見つめるグレモリーの顔に、呆れ苦笑の入り混じった複雑な笑みが浮かんでいく。そして、第七座天使の侯爵の視線が、完全に吟遊公爵から逸らされたとき……。
 吟遊公爵の細い腕は、第七座天使の身体をしっかりと捕らえていた。

「…………マルコシアスは、本当に雨が嫌いなのねぇ」

「雨が降って喜ぶのは、水軍の連中くらいなモンだろ。濡れるわだるいわで良いことなんざ一つもねぇよ」

「でも、雨に濡れて埃が落ちた花の色とか、草の色とかはものすごく綺麗よ……?」

「……………………興味ねぇな……」

「それに……………………ほら……見て、マルコシアス。雨が上がるわ、光と共に……」

 あまりに突然の出来事で、上手く対処できなかったのだろう。とっさに身動きの取れなかったマルコシアスの頭を胸に押し付け、グレモリーはそっと彼の背中を叩く。あやされるように一定のリズムを保って叩かれるその感触に、マルコシアスは思わず息を飲んだ。
 子供のように扱われていることに気が付いてはいるのだが、いかんせんあやす手の感触が心地よすぎるのだ。
 宥めるように背中を撫でる温かく小さな手も、静かに上下する柔らかな胸も、耳元で聞こえる甘い声も…。そのいずれもが、マルコシアスの脳髄を溶かすように彼の中に入り込んでくる。
 まるで揺り篭の中にでも入れられているかのような感覚に、第七座天使の侯爵は、吟遊公爵の胸の中でそっと瞳を閉じた。耳に聞こえるのは、次第に弱まる雨だれの音と、静かに命を刻む吟遊公爵の鼓動くらいなものだ。
 鈴を振るようなグレモリーの声に促されるように、マルコシアスは彼女の腕に抱かれたまま、ゆっくりと窓へと視線を向けた。カーテンの隙間から見える景色は、洗われたように新鮮な色彩を取り戻している。
 ……そして……。
 今まで空に垂れ込めていた分厚い雲の切れ間から、幾筋にも光が地上に降り注いでいた。それは空から光のシャワーが降り注いでいるようにも、天から光の梯子が下ろされているようにも見える。
 ただただ光に魅入るマルコシアスを開放し、グレモリーが窓辺へと近づいた。今まで自身を包んでいた柔らかな温もりが消えたことに気が付いたマルコシアスが不服そうに鼻を鳴らすのに苦笑を洩らしながら、グレモリーはゆっくりと窓を押し開ける。窓枠や桟に瀟洒な細工を施された窓はかなり大きく、長身のマルコシアスですらも楽に出入りができるほどだ。
 湿った土と緑のにおいがどっと室内に押し寄せてくる中。身を乗り出して外を眺めていたグレモリーがくるりと踵を返し、そのままつかつかとマルコシアスに歩み寄っっていく。怪訝そうに眉根を寄せるマルコシアスに笑いかけながら……吟遊公爵の白い両掌が、浅黒く日に焼けた第七座天使の侯爵の頬をそっと包みこんだ。

「私は、雨降りの日も大好きよ、マルコシアス」

「……………………お前、そんなに雨の日が好きだったか?」

「ええ、好きよ。雨に濡れる草木も、雨で煙った景色も、湿った土と緑の匂いも、水に満たされる大地も、雨上がりの太陽の光も……」

 マルコシアスと視線を合わせつつ静かに言葉を紡ぐグレモリーの後ろには、慈雨に洗われた緑が広がっていた。
 荒れ果てた地獄の底に根を下ろし、命を花開かせた命達は、先ほどの雨でからからに乾いた身体を潤せたらしい。風が運んでくるむせ返るほどの土と緑と花の匂いが、マルコシアスの鼻先をくすぐっていく。

「それに、ね…………雨の日は、マルコシアスと一緒にいられるから、私は雨の日が大好きなの」

 予想外のグレモリーの言葉に、マルコシアスが思わず彼女を振り仰ぐ。その無防備にさらされた額に、くすくすと笑い声を零したグレモリーがそっと唇を落とした。
 幼い時と何一つ変わらない吟遊公爵の笑顔に、第七座天使の侯爵は瞳を眇める。そろそろ、幼子のように扱われていることに限界を感じ始めたのだろう。
 頬から離れていくグレモリーの手を、一回り大きなマルコシアスの掌がぐっと鷲掴んだ。そのまま彼女を勢いよく引き寄せ、バランスを崩した小さな身体ごと彼女の身体を抱き上げてしまう。
 にぃっと唇の端を吊り上げて笑うマルコシアスに担がれて、グレモリーが抗議の悲鳴を上げる。大柄なマルコシアスの肩に担ぎ上げられた上、太腿と足首をがっちりと固定されては、小柄なグレモリーに逃げ出すことなどできはしない。それどころか、唯一自由な両手で背中をぽかぽかと叩いても、第七座天使の侯爵が堪えた様子はまるでない。
 ……というよりむしろ、グレモリーが抵抗すればするほど、彼の顔に浮かぶ意地の悪い笑みはどんどん深まっていくようだ。
 じたばたと抵抗を続ける吟遊公爵を担ぎ上げたまま、第七座天使の侯爵は間続きになっている小部屋のドアを蹴り開けた。少し小さめの寝台とサイドテーブルがあるだけの部屋ではあるが、執務の合間に仮眠を取る程度のことは十分できる。
 その小さな寝台に、グレモリーを投げ出し……。マルコシアスは、何とか起き上がろうとする小さな身体に覆いかぶさるように圧し掛かった。

「っっ、ひゃっ!?ま……マルコシアスっっ!?!?」

「大人しくしてろ、馬鹿モリー。そんなに好きなら、もうしばらく一緒にいてもらおうじゃねえか」

「え……で、でも、お仕事、まだ、残って……」

「喧しい!ちっとは大人しくしてろ、馬鹿主!!」

 褥の上で身を捩る吟遊公爵を、第七座天使の侯爵は上から押さえつけた。割り開かれた脚の間に自身の身体を割りこませ、驚愕に見開かれている瞳を覗いきながら耳元で囁く。
 状況が把握しきれていないのか、はたまた状況を把握したせいでパニックに陥っているのか……。しきりに視線を彷徨わせるグレモリーの頭から毛布を被せ、マルコシアスは彼女を自身の胸へと引き寄せた。

 先ほどまで、あれほど気になっていた気だるさはもう感じない。むしろ、茫洋としたぬるま湯に全身が浸かっているような奇妙な安堵と快感に、身体の芯からほどけていくようだ。
 いつの間にか抵抗することを諦めたのか、呆れたような笑みを浮かべる吟遊公爵に抱かれながら……今やすっかり大きくなった狼は、ゆっくりと瞳を閉じた。











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みやうち

Author:みやうち
いあ!母なる森の黒山羊よ!
いあ!父なる混沌の媒介よ!
北狄の地に眠る、醜く蠢く肉の塊にして、のたうつ太い腕と、滑りにくい靴を好む短い脚、粘液を滴らせる大きな口を持つ。
それは、しわがれた低い声で、呪詛と歓喜を詠うであろう。

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