スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

オオカミノミルユメ



昔々ある所に、親をなくした仔狼と、
彼を拾った女の子が住んでおりました。

女の子はとても優しく仔狼の世話をしてくれましたが、
彼女はとても忙しく、仔狼の傍を離れることが多々ありました。

そんな時、仔狼は彼女と離れるのが嫌で嫌で仕方なく、
彼女の足にすがりついてきゅんきゅんと鳴き声をあげるのです。

そのたびに、女の子は仔狼の頭を撫でながら
「すぐに帰ってくるからね」と言って聞かせるのですが、
仔狼は鳴きやんでくれません。

鳴いてばかりいる仔狼のため、女の子は……。

…………女の子は…………。




















オオカミノミルユメ












 執務の終わりは、騒々しく騒ぐ鳥たちの鳴き声とともにやってきた。
 近くにある侯爵様の執務室で、恒例行事となっている夕方の情報報告会が始まったのであろう。偵察として地上に散っていた五芒星内の侯爵様の先兵たちが、口々に主であるデカラビアに情報を教えている。
 共に仕事をするようになって長い時間が過ぎた今でも、いま一つ正体の知れない彼の侯爵様の先兵は、空の上から地上を見下ろす鳥達だ。一つ一つは可愛らしく奇麗な声なのだろうが、それがたくさん集まった状態では騒音としてしかとらえることができない。
 もはや慣れたとはいえ、やはり神経に触る騒ぎに舌打ちしながら、天使のような悪魔王――クローセルは椅子から立ち上がるとぐうっと背筋を伸ばした。
 同じ姿勢で作業をしていたせいか、首や肩や腰を回す度にゴキグキという関節の鈍い悲鳴があちこちで聞こえてくる。背中に生えた一対の白い翼も、長時間にわたるデスクワークでしなびているようだ。
 すっかり鈍ってしまった身体にため息をつきながら着崩れていた衣服を整えると、クローセルは処理のすんだ書類や資料を携えて執務室を後にする。廊下と執務室を隔てる分厚い扉を閉めると、未だ終わっていないらしい報告会の喧騒もようやく聞こえなくなった。

 回廊はひどく長くひどく広く、そして妙に薄暗かった。それというのも、窓という窓に、薄く磨きあげられた宝石で作られたステンドグラスが嵌めこまれているせいであろう。神々の争いや堕落しきった世界などをモチーフにして作られたそれは、外で輝く擬似太陽の光を通し、金色を帯びた薄暗がりや、翡翠色の影、深い青と血色の赤とが織りなした二藍の闇を作り出している。
 足音すら吸い込んでしまう厚い絨毯を踏みしめながら、深く長く息を吐いたクローセルは、いまだ重苦しさの取れない肩を押さえた。痛いまでに凝り固まった筋肉に幾度もため息をつく彼の脳裏で、筋肉痛や神経痛に対する効能のある温泉がどんどん検索されていく。


「………………今度は、放射能泉でも掘りあてようかな……」

「俺は、炭酸泉の方が好きだがな」

「ああ、炭酸泉もいいよねえ……皮膚炎とかにはあれが一番――って……ちょ、ま、誰……!?」


 耳が痛くなるような静寂を切り裂いたクローセルの後ろから、思いがけなく答えが返ってきた。不意に聞こえてきたその声に、炭酸泉の存外に柔らかな湯触りを回想したらしいクローセルの頬がだらしなく緩む……が……その表情は、すぐに怪訝そうに歪められた。今さっきまで、この広い回廊には自分しかいなかったことでも思い出したのだろう。
 泡を食ったのか挙動不審なまでに周囲を見渡すクローセルの背後で、半ば呆れたような溜息とともに、一つの影が闇を揺らして姿を現した。巨大な体躯と、闇色の毛並み、そして、背中で揺れている一対の大きな翼は、クローセルにもよく見覚えのあるもので……。


「……………………っ、な、なぁんだ……誰かと思ったらマルコシアスかぁ……」

「少し落ち着け、この浴槽公爵が……温泉に浸かりすぎて仲魔の顔も見忘れたか?」

「見忘れてなんかいないよ、失礼な!………………あ、そうだ!それより、『浴槽公爵』って呼ぶのやめてよ。かっこ悪すぎだろ……」


 第七座天使の侯爵、史上最強の魔狼、戦闘爆撃凶獣、吟遊公爵の忠犬、有翼の狼、炎の氷柱……。
 元々は吟遊公爵の手で育てられた騎乗獣でありながら、発明好きな六副官によって改造され、創世記戦争において敵軍に壊滅的な被害を与えた最凶の魔獣……。
 さまざまな別称と複雑な成長過程を持つこの狼の名は、マルコシアスといった。

 恨みがましい目で自身を見つめるクローセルを鼻で笑いながら、有翼の狼はゆっくりと足を踏み出した。ただでさえ毛足の長い絨毯が足音を吸収する上に、肉球がクッションの役割を果たすせいだろう。肩高が50キュビト程もある狼が歩いても、彼の足音は全くと言っていいほど聞こえない。
 だから先ほども背後を取られたのだろう、そもそも戦闘向きでない自分が背後を取られたのも仕方がないと自分を慰めつつ、クローセルは隣に並んだ狼をそっと横目で眺めやった。
 魔狼と呼ぶにふさわしい体躯を持つ狼の頭は、彼の目線よりやや高いところに位置している。太長い尾をゆらりと揺らして歩く狼と、文字どおり肩を並べながら……クローセルは、思い出したように狼に抗議を申し立てた。だが、唇を尖らせて拗ねるクローセルの様子など、狼は全く気にしていないようだ。むしろ、子供のように頬を膨らませるクローセルの様子を、それはもう楽しげに観察しているようにさえ見える。


「……あのねぇ、マルコシアスと比べたら、僕の方が爵位は上なんだからね!目上の者の言うことには服従するべきだと思うんだけど?」

「爵位など飾りだ。目上の者にはそれがわからんと見える」

「……マルコシアス、恐ろしい子………………………………で、僕に一体何の用なの?」

「ああ。探し物を頼まれてくれ。昨日まではあったものが、さっき起きたらなくなっていた」

「……………………………………………………………………は……?」


 礼儀だの礼節だのを一刀両断に切り捨てるマルコシアスに、クローセルは本日何度目になるのか分からないため息をついた。考えてみれば、彼の横で翼を揺らめかすこの狼は、育ての親である吟遊公爵の命令しか受け入れない頑固者であったのだ。彼の嘆願などハナから受け入れられるはずがないだろう。
 無駄な議論はごめんだとばかりに話を切り上げた浴室公爵ではあったが、次の瞬間、琥珀色の彼の瞳は驚愕に見開かれることになった。
 『探し物をしてくれ』と、クローセルの傍らに立つ狼はそう言った。はっきりきっぱりしっかりばっちりがっつりと、だ。
 あれよという間に、クローセルの眉間に見る間に皺が寄っていく。あまりに想定外すぎる頼みごとに、思考回路がフリーズしかけているのだろう。
 何せ、彼の職能は水を自由自在に操ることであり、温泉を発掘することである。はっきり言ってしまえば、狼が望んでいる『失せ物探し』という職種は、彼の職能とはまるで違うところにあり、全くの不得手なのだ。むしろ、この『失せ物探し』というものは、涼しげな顔で尾を揺らす狼の主人である吟詠公爵や、竜総統が得意としている分野である。
 そうでなければ、これは願いの貴公子に頼み込むべき分野でもあった。そうすれば、元々物品の運搬を得意とする貴公子のことだ……狼が望むものを、瞬く間に彼の目の前まで届けてくれるであろう。まして、願いの貴公子……序列70番の公爵様は、盗品を奪還することも大得意としている。犯人はともかく、盗まれたものだけは取り返したいという今回のような事態にはぴったりの人材ではないか……。
 適任者がこれだけいるというのに、全くの畑違いの職能を持つ自分に、いったい何を頼んでいるのか、と……。クローセルの眉間の皺の深さが頂点に達したとき……ようやく事態に気がついたらしいマルコシアスが口を開いた。


「どうした、浴槽公爵?お前の特技はダウジングで、それを使えば何でも見つけられるんじゃないのか?」

「またまた御冗談を。僕にだって限度はあるよ…………っていうか、僕の特技がダウジングだなんて誰に聞いたの?」

「掠奪候だ。ダウジングで温泉を掘り当てられるくらいなのだから、きっと他のものも探せるだろうと聞いたぞ」

「………………………………何であの二枚舌の言うことを信じるのかな、君は……」


 怪訝そうに首を傾げる狼の言葉に、浴槽公爵は脱力したようにうなだれた。
 確かに人間界では、地下の温泉を探すときにダウジングが用いられることも間々あるという。そしてもちろん、クローセル自身もダウジングができないというわけではない……が……元々がユーフラテス川を支配するドラゴンの化身であった彼の場合、いちいちダウジングなどしなくても、地下を走る水脈の気配を感じることなど朝飯前なのだ。
 幾度か翼をはためかせる狼の横顔を見つめながら、クローセルは狼に噂の出所を問いただした。自分の特技を改竄されて吹聴されたことにプライドが傷つけられでもしたのだろう。
 だが、狼の口から噂を流した張本人の名を聞いたクローセルの肩が、今よりさらに脱力したかのようにがくりと下がった。
 掠奪候とは、クローセルやマルコシアスと同様に、ルシファーの軍門についた悪魔王の一人である。
 しゃがれた声で話すコウノトリの姿をした彼は、対象の視聴覚や理解力を奪うような撹乱系操作を得意とする侯爵様で、名前をシャックスという。だがしかし、狼にあらぬことを吹き込んだらしいこの掠奪候は、魔方陣の中にいない限りありとあらゆる嘘を教えることで有名な侯爵様でもあるのだ。恐らく、悪魔にしては珍しくまっすぐな性格のマルコシアスに、クローセルの特技がダウジングだということをでっちあげて吹き込んだのだろう。


「………………つまりは何か?俺はあのコウノトリに騙された、ということか?」

「あー……いや、ダウジングができないわけじゃないから、シャックスは別に嘘はついてないかなーって……」

「だったら、早いところ探し物を手伝ってくれ。早く、早く、早く、早く、早く、早く!!!」

「ちょ、ちょっと待ってよ!!ダウジングは、地下にあるものを探す方法なの!マルコシアスの探し物は地上にあるんでしょ?」

「その通りだが、何か?…………ということは、ダウジングは使えんということか?」

「…………あー………………まぁ、ね……」


 時折通り抜ける風に首筋の毛を逆立たせながら、ようやく騙されていたことに気がついた狼の鼻筋に深い皺が寄せられる。徐々に明るさを増していく回廊の真ん中で、クローセルは冷や汗でじっとりと湿った掌を握りしめ、マルコシアスを宥める100の方法を脳内でシミュレートしていた。
 何せ、彼の横で牙を剥く有翼の狼は、嘘をつくことも嘘をつかれることも大嫌いな変わり者なのだ。このまま放置しておいたなら、狼に嘘を吹き込んでしまったコウノトリが、焼き鳥になって晩餐の皿に載りかねない……。非常に非情な悪魔といえども、流石に仲魔の肉は食べたくないらしい。

 不機嫌そうなマルコシアスの唸り声を耳にしつつ、額に滲んだ脂汗をこっそり拭ったクローセルの視界がふと開けた。いつの間にか、あれほど長かった回廊の端までたどり着いていたようだ。右手には擬似太陽の輝く空が見える中庭が望め、左手には宮殿の深部へ繋がる回廊が続いている。先ほどから感じていた風の流れは、中庭から入り込んでいたものだろう。

 中庭は、地獄の底にあるということが信じられぬ程に美しかった。
 緑の芝生の中央には泉ほどの大きさの噴水が置かれ、中央の水盤に降り注ぐ水が細かい霧となって周囲の花々を洗っている。庭の隅では葉を茂らせた巨木が涼しげな影を作り出しており、その下には小さな東屋が置かれていた。
 急いた様子の狼がめろめろと吐きだす炎の熱にちりちりと皮膚を焼かれるクローセルが、現実から逃避するかのように中庭の風景を眺めやったちょうどその時……猫の瞳のような彼の眼に、ふと何かが写り込んだ。
 大理石でできた噴水の水盤にもたれかかるように腰を下している、よく見なれた小さな影。
 ……それは、狼の剣幕に押されるクローセルの救世主とも呼べる存在であった。


「…………っていうか、探し物があるなら、吟遊公爵に頼んだ方がいいんじゃないかなあ……?」

「……だから、その張本人が見つからんのだ……!!」

「え、うそ!?あそこ……中庭にいるのって吟遊公爵でしょ?」

「何だと!?何処だ!?!?」

「え……ちょっ、マルコシ……アッー!!!!」


 形容しがたい悲鳴とともに、中庭を指差したままのクローセルが押しつぶされた。彼の言葉に反応した狼の前足が、彼の頭を踏みつけたからだ。勢いよく下顎を床に打ちつけてしまったせいか、ぐらぐらと歪み、暗くなっていく視界の中、もう二度とこの狼の相談事には関わるまい、と……。
 そして、今日の仕事が終わったら、僕、炭酸泉を掘りに行くんだ……と、固く心に誓いながら……。
 踏んだり蹴ったりの苦労人は、狼の肉球の感触を後頭部に感じたまま、ゆっくりと意識を手放した…………。











「…………おい、そこの馬鹿主……!!」

「あらー……おはよう、マルコシアスー。もう起きちゃったの?」

「何が『もう起きちゃったの?』だ……俺がどんだけ探したと思ってんだ、このトロ魔王が……!」

「えーっと……うん……何だかよくわかんないけどごめんね……?」


 しんなりと絨毯の上に倒れ伏したクローセルを放置した狼は、水盤にもたれかかっている影に足を向ける。呆れた様な怒っているような狼の声に、アンティークレースで出来た白いベールとベルベットの黒いドレスを纏ったその影……吟遊公爵・グレモリーは、ようやく手元から顔を上げた。
 頭の位置が変わったせいか、彼女が被った黄金の公爵冠が反射した光が狼の目を射る。染みいるような突き刺さるような光の強さに瞳を眇めながら、ゆったりと尾を振る狼が自身よりも小さな少女の胸に頭をすりよせた。
 荒い口調とは裏腹に、全身で甘えてくる狼にグレモリーは一瞬瞳を丸くする……が……すぐさまその瞳は優しく細められ、白く柔らかな掌が、宥めるように狼の頭を撫で始める。
 芝生の上に直に座り込むなど、公爵とも思えぬ少女の前に寝転んだ狼は、さも当然という態度で彼女の膝に顎を押せた。
 頭を撫でられ、耳の根元を軽く掻かれ、鼻筋を指先でくすぐられ……満足そうに目を閉じる狼の鼻先が、黒く柔らかなものに触れる。その感触に呆れたようにため息をつく狼の身体から手を離し、少女は見た目の大きさに反して意外と軽いそれを手に取った。


「…………やっぱりお前が持ち出してたんだな、馬鹿主……」

「うん。ずいぶん汚れてたし壊れてたから、きれいに直してあげようと思って……」

「お前の好きにすればいい……元々は、お前が作ったモンだからな」

「あの頃のマルコシアスは、私がいなくなるとすぐに泣いちゃうんだもの……大変だったのよー?」


 くすくすと小さな笑みを漏らした吟遊公爵は、それの前足を持つとむすっとしたような狼の口元に押し当てた。柔和な笑みを浮かべる少女と同じ匂いを持つそれは、彼女が不在の時に泣き喚く仔狼を慰めるため、彼女手ずから作ってくれたぬいぐるみであった。
 少女の古いドレスを利用して作られたそれは、狼の成獣ほどの大きさがある。親を亡くしてしまった仔狼が、少しでも寂しい思いをしなくて済むようにという思いが込められていたのだろう。事実仔狼は、少女が不在の夜は彼女が作ってくれたぬいぐるみの傍らで、おとなしく眠ることができるようになっていた。
 身体は柔らかな布でできていて、血潮は綿で瞳は硝子……親獣を模した血の通わぬぬいぐるみは、常に狼の傍らにあり続け、ただの一度の紛失もなく、ただの一度の損壊もなく……遥か昔から今も狼を見守り続けている。

 瞳を閉じたままの狼からぬいぐるみを離し、少女は彼の傍らにそれを寝かせてやった。だが狼は、そのぬいぐるみには全く興味を示さない。
 てんで無関心なマルコシアスに話しかけるグレモリーの声は、どんどん小さくなっていった。少しばかり悲観主義的なところのある彼女のことだ。余計な事をしてしまったのかもしれないと、後悔と慙愧の念の渦に巻き込まれているのだろう。

 
「んと……も、もしかして、余計なこと……だった……?変なことすんな、って怒ってる?」

「いや。怒っているわけじゃねぇ……ただ、そのぬいぐるみはお前の代理品みたいなモンだろ?」

「……え……う、うん……あの時は、確かにそのつもりで作ったけど……」


 狼の傍らに寝かせたぬいぐるみを抱きあげた少女が、その頭に口元を埋めるように抱きしめる。蚊の鳴くような少女の囁きに、狼は閉じていた瞼を大儀そうに持ち上げた。今にも泣きそうなほどに歪んでいる少女の瞳を見据えたまま、狼は彼女の膝から頭を起こす。
 膝から急に重さと温もりが消えたことに驚いたらしい少女が、慌てて視線をあげた時……少女は、自分よりも幾分年嵩の男に押し倒されていた。年の頃は20代前半というところだろうか。ざっくりとした短い黒髪の間から黒い獣の耳が二つ飛び出しており、背中には、グリフォンに酷似した一対の翼が生えている。
 茫然と男を見上げる少女の瞳を覗き込みながら、男は口角を吊り上げた。

 ぽかんと口を開けたままのグレモリーの腕から、男の大きく無骨な掌がぬいぐるみを取り上げた。そしてそのまま、ぬいぐるみを彼女の手の届かぬ水盤の上に置いてしまう。少女の唇が抗議の言葉を紡ぐ前に、男は彼女の口唇に己の唇を重ね合わせた。
 一瞬、何が起こったのかわからなかったらしい少女の瞳が、男の金色の瞳と交差する。そして、数瞬の間があり……ようやく自分自身の身に起きたことを理解したのだろう。少女の瞳が驚愕に見開かれた。


「………………………………だったら……お前自身がそばにいる今は、代理品なんかいらねぇよ……」

「…………な……ま、マル…………な、なに………なんで…………」

「何でもクソもあるかよ、今日の礼だ。それより俺は、お前探しで疲れた。少し寝かせろ、馬鹿モリー……」


 ふと盗み見たグレモリーの顔は、口付けを落とした張本人が気の毒になるほど真っ赤に染まっていた。生理的なものなのか、感情の縺れなのかはわからなかったが、目尻には涙が溜まっている。盛り上がった涙を舌先で舐め取りながら、男はにぃっと唇を笑みの形に歪ませた。
 酸欠の魚のように口をぱくつかせる少女に水盤の上に置いていたぬいぐるみを押し付けると、男はぶるりと身体を震わせた。何とも情けない顔で男を見つめる少女の目の前で、男の身体が瞬く間に変わっていく。爪と牙は伸び、口は裂け、骨格がぎしぎしと悲鳴をあげて…………グレモリーが幾度か瞬きをする間に、黒髪の男は闇色の毛皮を持つ狼へと変貌を遂げていた。
 混乱の極みに達したような少女を他所に、もう一度彼女の頬を舐めた狼が彼女の膝に頭を乗せる。そのまま甘えるように下腹に鼻面を押し付けて、心底安心しきったような表情を浮かべると、そのまま静かに寝息をたて始めた。
 後に残ったのは、言いたいことだけ主張して、今はもう静かに眠る狼に圧し掛かられた少女ただ一人、である。





















 昔々ある所に、親をなくした仔狼と、
 彼を拾った女の子が住んでおりました。

 女の子はとても優しく仔狼の世話をしてくれましたが、
 彼女はとても忙しく、仔狼の傍を離れることが多々ありました。

 そんな時、仔狼は彼女と離れるのが嫌で嫌で仕方なく、
 彼女の足にすがりついてきゅんきゅんと鳴き声をあげるのです。

 そのたびに、女の子は仔狼の頭を撫でながら
 「すぐに帰ってくるからね」と言って聞かせるのですが、
 仔狼は鳴きやんでくれません。

 鳴いてばかりいる仔狼のため、
 女の子は母狼のように大きな縫いぐるみを作ってくれました。

 女の子のドレスで作られたそのぬいぐるみに抱かれていると、
 まるで彼女と母狼の両方に抱かれているようで……。

 仔狼は、彼女がいない間でも、
 鳴かないで待っていることができるようになりました

 …………それに…………。

 待ちくたびれて眠ってしまった仔狼が目を覚ませば、
 彼の身体はぬいぐるみとともに女の子の腕の中にありました。

 女の子が、眠ってしまった彼を抱いていてくれるのです。

 大好きな女の子と、女の子が作ってくれた大事なぬいぐるみと……
 二つの宝物に囲まれて、仔狼は静かに静かに眠りにつきます。




























「…………寝顔は、昔とちっとも変らないんだから…………………………おやすみなさい、マルコシアス。どうぞ良い夢を、ね……」










 警戒心の欠片も見せずに眠る狼の頭を撫でてやれば、狼の尾が緩やかに揺れる。先ほどまでの暴れっぷりが嘘のように大人しくなった、元・弟分の背中を撫でてやりながら……。
 穏やかな笑みを浮かべた吟遊公爵は、狼王の額にそっと口付けた。















スポンサーサイト

comment

post a comment


管理者にだけ表示を許可する

trackback

プロフィール

みやうち

Author:みやうち
いあ!母なる森の黒山羊よ!
いあ!父なる混沌の媒介よ!
北狄の地に眠る、醜く蠢く肉の塊にして、のたうつ太い腕と、滑りにくい靴を好む短い脚、粘液を滴らせる大きな口を持つ。
それは、しわがれた低い声で、呪詛と歓喜を詠うであろう。

カテゴリ

検索フォーム

ブロとも申請フォーム

QRコード

QR


上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。